タイミングと方向性の重要性

-争いの変容、平和、そして武道に関連して

一般の人たちは武道について、2人以上が物理的にぶつかりあうもの、という印象を多くの場合持っていると思います。争いが時空間のなかに存在し、お互いにコンタクトをとるためにその人たちは交錯します。争いを銃を打つことに例えれば、用意する、構える、撃つ、にそれぞれ相当する段階があり、ここで「用意する」をAポイントと、「構える」をBポイント、「撃つ」をCポイントとします。Cポイントでは、すでに相手はわれわれを攻撃してきています。タイミングが武道のすべてなのですが、Cポイントはタイミングとしては遅すぎて、できることは限られています。多くの武道の専門家はCポイントの早いタイミングをとらえることができますが、それは護身のための技術ということができ、体の接触が発生します。
タイミングについて考えると、それは国際関係においても決定的に重要と言うことができます。国際社会では、多くの場合、紛争発生後に対応が行われます。これはCポイントかそのより後に該当します。世界のどこかで起きた暴力について耳にしたとき、なぜ防止できなかったのだろうと考えたことが、何度もあるのではないかと思います。反応が遅れることで、暴力的な対抗策を行うことがさけられなくなり、その暴力的な対抗策によって、最初あった問題が拡大することがしばしばあります。

武道の立ち会いにおいて、状況を支配し対抗しようとした場合、その瞬間から相手とのあいだにへだたりが生まれ、コミュニケーションができなくなります。関係は失われ、「道を見失う」ことになります。コミュニケーションを回復させるために、対抗手段を繰り返すことになりますが、その結果、相手は自衛のためにさらに強い対抗手段を出してきます。

争いに直面したとき、最初に行うべきことは破壊的で危険な結末をさけることです。そのために、実際は積極的に取り組んでいるときにも、見た目は「後退」したり「引いている」ように見える場合があります。リラックスし、対抗しようとしないことで、相手とよりよいつながりをもつことができますが、これはよくそう思われているような「コントロールする」こととは違います。接触し協同することに、熱意をもって取り組んでいるだけです。

最終的には、強い―弱い、勝ち―負け、といった二つに分ける考え方を捨て去り、相手とダイナミックな関係を選ぶことが必要になります。

争いがおこる可能性があるときに、相手を変えようとしたり、方向を変えさせようとするべきではありません。相手のものの見方を、われわれに対する敵意も含めて、尊重する必要があります。そうすることで、相手はもともと持っている目標や動機を、たとえそれが、われわれにはおかしなものに思える場合でも、追求することができます。誰かがわれわれに攻撃をしかけてきた場合、そのことによって自分の、勝つことに執着するエゴを知ることができます。最初から最後まで、相手のそばを離れず、接触を失わないことが大切です。

「後退」したり「退却」するという決断を行うには、タイミングの全体像に対する理解が必要であり、勝つことではなく、理解をのぞむ意思が必要です。勝つ必要がないと決めることによって、そうでなければ得られない選択肢が双方に与えられます。これは、タイミングについてより理解していくための第一歩であり、その決断により争いは最終的に防止されたり、昇華されることすらあります。
Cタイミング         Bタイミング         Aタイミング
争い→自己防衛→争いの防止→争いの変容→平和の創造→平和

ポイントは、平和な結末に向かって活動を続けることです。取り組んでいるプロセスを通じて、CからBのタイミングへ、そしてできればAのタイミングへ変わっていかなければなりません。お互いのやりとりには、言葉や接触によるものが含まれるかもしれませんが、いずれにせよタイミングをできるだけ早くしていくことが必要です。

相手が動きはじめているが、われわれのところまではきていない場合は、Bポイントでの取り組みを行う必要があります。たがいにぶつかるのではなく、相手にそって動きます。成功すれば、ぶつかりあうことを避け、それでも違う意見を持っている、という状態が可能になります。武道では、自分たちの位置を自然に変えて、相手が向いているのと同じ方向を向き、相手とおなじ見方で世界をみることを行います。それによって相手の世界観を学びはじめることができるのです。

毎日の生活にこの動きをおきかえると、同意できないことから一歩ひいて、質問するという形をとります。相手が言っていることを理解しているか確認し、相手が主張していることから、本当に求めていることをさぐります。われわれは、自分のからだと心で、相手のことを学び、聞く努力をする必要があります。柔軟さをたもち、自分の方針を手放す必要があります。

平和が実現するのはAポイントになります。相手が動きはじめる前に相手をとらえた場合、からだの動きは武道というより踊っているように見えます。相手の軌道を変えようとするのではなく、自分の耳や全身を使い、愛と受容を持って相手のことを聞きます。われわれと実際に、または象徴的に衝突しようとしている相手の価値観にみるべきものがあると考えたときに、力学が変わりはじめます。

これまで述べたような出会いは2分間でおこることもありますし、時間、日、週、月といった時間をかけておこっていくこともありますが、本質的な力学は同じです。

本質的な変化は、人生の多くの事と同じように、われわれの中で起こります。理想をいうことは簡単ですが、実際の生活のなかでおこなうことは、たいへんに難しいことです。自分たちや、世界の仕組みに対する、自分好みの見方をあきらめる必要があり、これはかなり不快なことです。われわれの多くにとって、こうした方法で平和を築くためには、一生かかる取り組みが必要になります。

究極的には、Aポイントで動くために、予防的に(相手なしで)平和活動をする必要があります。つまり、一日に出会うことに備えて瞑想をおこない、衝突するのではなく、つながりを持つ可能性を高めるのです。これは、われわれの小さい心が作った方針を捨て去り、かかわりを持つ人への本当の興味を持って時間をすごすことを意味します。最悪のときに、明確な、愛と同情への意思を持ち続けることなのです。

武道は、明確で現実的な例を見せることにより、助けとなります。自分の見方(スタンス、戦略など)に執着しすぎると、出会いの質は急速に低下します。一方、うまく行く場合には、ゆたかで、明るいやりとりが起こります。毎日の生活では、ものごとはそれほど明らかではありません。Cタイミングで行動し、(ほとんどの場合で)小さなことに関して他者とぶつかりあって、自分たちが作った争いを自覚しないでいるのは簡単なことです。

争いは、関係をAタイミングに近づけ、平和に向けて成長する機会になります。人生や世界におけるすべての出会いを、より深い意識や意思によって導き、平和の基礎とすることが可能です。その道のりをはじめるために足りないものがあるとすれば、それをはじめるというわれわれの決意だけなのです。

*武道の哲学的なルーツは、生死のさかいで、生き残る能力にあります。それは自分の意識(自己)に集中しており、(他者との)争いに焦点をあてていません。目的とするところは征服や勝利、敵対的な他者に打ち勝つことではなく、つながり合い、学び、相手の世界観を知ることです。究極的な目標は、成長であり、学び、より深い関係を持つことです。これは「平和」に関する定義の一つとなると思います。

2010年、伊東不学、Tomi Nagai-Rothe、Lee Seaman、協力:Elli Nagai-Rothe
翻訳責任:飯田宗一郎
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