般若心経と瞑想 松山晋一

般若心経と瞑想 松山晋一

2015

般若心経は瞑想の手引書と見ることができるが、そう考えた場合、古今東西の瞑想の手引書と共通する点が多い。

伊東コメント:

般若心経はしばしば葬儀で用いられます。今世と来世を結ぶものとして使われるのでしょう。とても短く、日本や東アジア、東南アジアではたくさんの人が暗記しており、朝晩の供養で人の魂が迷いなくこの世からあの世へ渡るよう、祈りのように用いられます。

以下に松山さんから紹介のあった、3種類の瞑想ガイドを紹介します。一見、それぞれ大きく異なるように見えますが、本質的にはとても類似していることを教えてくれます。一方で、それぞれのアプローチはまったく異なっているのです。

朝の空気のように澄み切っていること

朝徹(ちょうてつ)

(Chinese pronunciation: Zhao Che)

瞑想で、朝徹という目標とされる状態があります。朝の空気のように澄み切った意識の状態です。しかし、荘子によれば、これはゴールではなく、ここから意識が成長するスタート地点となります。ここをすぎたあとの成長についての説明には、多くの古代からの叡智と共通点があります。

深い瞑想状態で観察するように示唆さられているものは、多くの宗教で共通しています。深い瞑想に入ったとき、ひとは「ここ」と「今」に自分を浸透させ、物ごとをあるがままに受け入れます。通常は、身のまわりで起こったことは、自分の解釈なしに見ることができません。

しかし、深い瞑想状態では、われわれは何もつけ加えず、なににも影響を与えません。我々はただ存在し、世界をフィルターを通さずに体験します。見たことや感じたことの詳細にはたいして重要ではありません。重要なことは、そこに何がうつろうと意識の覚醒を維持することです。これにより、本当の意識を発達させることができます。

この考え方は多くの方法で表現されています。とてもシンプルに、公案のような言葉を使うこともあります。

『身体はわたしではない。

感覚はわたしではない。

思考はわたしではない。

心はわたしではない。

わたしはない。

存在意識至福。』

心斎(しんさい)

(Chinese pronunciation: Xin Zhai)

回曰:「敢問心齋。」

仲尼曰:「若一志,无聽之以耳而聽之以心,无聽之以心而聽之以氣!聽止於耳,心止於符。氣也者,虛而待物者也。唯道集虛。虛者,心齋也。」

顏回曰:「回之未始得使,實自回也;得使之也,未始有回也;」

『荘子/人間世』http://ja.wikisource.org/wiki/荘子/人間世

 

顔回(孔子の弟子の一人)がいった。

「あえて心斎のことをお聞かせ願います」

孔子はいった。

「おまえの志を一にせよ。耳で聴かず、心で聴け。心で聴くことなくして、気で聴け。耳は音を聞くだけであるし、心は外から来たものに合せ〔て認識す〕るだけだが、気というものは空虚でいてすべて受けいれる。ただ道は虚に集まる。虚であることが、心斎である」

顔回がいった。

「わたしが心斎を知らなかったときは、まことにわたしは顔回でありました。心斎を知ってからは、もはや顔回ではなくなりました。」

伊東コメント:

「心斎(空)」と「朝徹(朝の空気のように澄み切った境地)」は異なるものに見えますが、松山さんは、考えれば、これら二つは同じものの異なる側面であることが分かるといいます。

このように言うことができるでしょう。ある点で自分自身のことをたくさん知っているが、真実は、「自分自身」など存在していなかった。

 生もなく、死もない

攖寧(えいねい)

(Chinese Pronunciation: Ying Ning)

「參日而後能外天下;已外天下矣,吾又守之,七日而後能外物;已外物矣,吾又守之,九日,而後能外生;已外生矣,而後能朝徹;朝徹,而後能見獨;見獨,而後能无古今;无古今,而後能入於不死不生。殺生者不死,生生者不生。其為物,無不將也,無不迎也;無不毀也,無不成也。其名為攖寧。攖寧也者,攖而後成者也。」

『荘子/大宗師』http://ja.wikisource.org/wiki/荘子/大宗師

孔子は言った。

(攖寧で瞑想を行ったところ)3日にして天下を外れるようになった。天下を外れるようになったので、私は又慎重にしていると、7日で万物を外れるようになった。

万物を外れるようになったので、私は又慎重にしていると、9日で生きていることを外れるようになった。生きていることを外れるようになったので、朝徹(明け方の澄み切った境地)になることができた。

朝徹の後に、独(周りに左右されない絶対独立の立場)を見ることができるようになった。

独を見た後に古今という認識をなくすことができた。

古今を消した後、死も生もない境地に入ることができた

生を殺すものは死せず、生を生ずるものは生じない。

そのありかたは、

送らざることはなく

迎えざることはなく

滅せざることはなく

生成せざることはない

それを名づけて、攖寧と為す。攖寧たるものは、(万物と)攖(触)(触れ合って)しかる後に成るものなりと。

松山さんの考えでは、攖寧(えいねい)の意味するところは、すべてのものごとをあるがままにあらしめることです。送り出し、すべてのものを迎え入れ、すべてのものを滅ぼし、すべてのものを生成するとういこと、いいかえれば、すべてはその真の状態で見られるとき、真実であるということです。

攖寧は難解なことばであり、さまざまな解釈がされています。日本人の学者である金谷治は、これを「すなわち万物の変化とふれあいながら安静でいる立場」と解釈しました。中国人の学者である郭嵩燾は、攖は万物にまといつかれながら安らかなことであると解釈し、馬叙倫は攖は古い漢字の借字であり、「寧」とともに安静の意としました。

学者は、難解な解釈の世界に生きているため、攖寧を難しくとらえますが、新体道の稽古人として考えれば、それはわかめ体操の世界を生きることです。自分に向かってくるものを、それがどんなものであれ、迎え入れ、受け入れともに流れ、送り出していく。そして外から来るものに次々と触れ、触れられていくほど、内奥の静寂が深まっていく。

そういうワカメの感じなのではないでしょうか。

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著者について:

1997年~2001年にかけて、松山晋一氏はベイラー大学医学部(テキサス州ヒューストン)にて研究を行い、分子メカニズムの研究をおこなったのち、2001年に日本の大阪に移住して共生についての研究をつづけた。2004年に研究を辞め、日本の伝統的な自然治療である鍼灸と新体道の研究に邁進している。

謝辞:

この原稿では以下の方々のお世話になりました。

・原文:松山晋一

・翻訳:Lee Seaman

・中国文チェック:Clélie Dudon および Yi Shiu Liu

・フランス語翻訳:Patrick Bouchaud

・最終英語版確認:Tomi Nagai-Rothe

参考文献

-          般若心経   “Hannya-Shingyo”     Ban  Ruo Xin Jing     Heart Sutra

http://en.wikipedia.org/wiki/Heart_Sutra

-          孔子         “Ko-Shi”     Kong Zi     Confucious
http://translate.google.fr/translate?hl=en&sl=zh-CN&u=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25AD%2594%25E5%25AD%2590&prev=search

-          荘子          “So-shi”     Zhuang Zi/Chuang Zhou
http://en.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi_(book)

-          顔回      ”Gan-Kai” Yan Hui
http://en.wikipedia.org/wiki/Yan_Hui

この文章は、日本語原文を英訳し、それを日本語に再度翻訳したものです。

翻訳の内容については飯田宗一郎に責任があります。

英文のもとになった、中国語、またはその日本語訳が入手可能な場合は、そちらの表現に従いました。