リー・オーデマン(Lee Ordeman) 日本語訳:飯田宗一郎
国際新体道の会報(2020年3月号)より抜粋
薄暗いキッチンのガス・ストーヴの前に立って、男は頭上にあるライトで頭と手を照らされながら火の上の中華鍋をふるっていた。だんだんと騒がしくなるその家のダイニング・キッチンに集まってきた連中にはほとんど注意をむけていなかった。ビールがふるまわれ、ワインのグラスが、リラックスした幸せな会話の合間に音をたてた。いい合宿のあとで行われるたぐいの集まり。
2019年の9月のケベックでのことだった。
お腹をすかせた連中の賑わいの中に最も強く響いた音、それは高くあがった炎のうえで金属の鍋が弾んだりぶつかったりする音で、男が左の手首をあおるとライスと四角に切ったニンジン、ネギ、豚肉がコンロの上でとびあがりシャワーのように鍋の中に降り注いだ。ミックスされた材料が手品のように元の鍋に戻っていくのをたくさんの人が見ていた。
炒めていた鍋の中身を取った後で、「タマゴ!」と彼が次の材料をリクエストすると、脇からよく混ぜられたドンブリ一杯の玉子が差し出され、ドンブリの中でかき混ぜられた玉子が鍋に入れられた。玉子は音をたてて炒められ、すぐに十分に固まったかと思えば、炒めてあったご飯と野菜が再び鍋の中に投げ込まれ、竹のしゃもじで炒り玉子に混ぜ込まれた。
玉子が待ち受けているライスにからめられ、最後に放り上げられた。
明るく光っている黄色が、炒められた玄米の上でネギの緑とニンジンのオレンジが作っていた斑点に加わった。醤油、コショウ、焼き飯の香りがディナーを待ち受けているゲストの鼻をくすぐった。
鍋の中身は大きな皿に移され、台所の中央にある大きな丸テーブルに置かれた。大皿と取り皿、スプーンと箸が配られ、客はこの10分間で新たに発見した事実、つまりこのウィークエンドに合宿を指導してくれたその男が料理でも相当な腕前を持っていたことに気付きながらテーブルについた。
彼もテーブルに加わり、みなが食べては次の皿に移るのを笑って見ていた。
小さなグラスのオンザロックの梅酒を少しづつ飲みながら、チャーハンを食べて喜んでいる人たちと一緒にいるのを楽しんでいた。
ケベックでのこの秋のイベントで、この手作りのチャーハンを食べた人のうち、男がどうやってこの技術をものにしたのかを知っていたのはわずかな人数だった。 それは彼が海外に新体道を広めるために日本を離れる前、中華料理屋に勤めていた頃の物語だ。
1965年の春にその男/伊東不学は中央大学を卒業した時、法学士の学位と(松濤会の最高段に)空手五段を許されていたが、大卒の若者が普通に選ぶような会社勤めのサラリーマンにはならなかった。
稽古を続け、彼の師匠/青木宏之の下で武道修業を続ける決心をした。
そのために生計を立てる必要があったので、師の紹介で、師の古くからの友人の張栄造(ちょう・えいぞう)氏に出会った。張サンは、中央大学では青木師の4年後輩、伊東の2年先輩であった。当時の彼は、横浜中華街で両親から任された広東料理のレストラン、永安楼(えいあんろう)を経営していた。
料理を学ぶという考えは彼には魅力的だったし、青木師の家と楽天会の稽古が定期的に行われていた野毛山公園の近くに住みながらお金を貯めることができるという条件にも満足だった。永安楼では若い見習いの料理人に部屋と食事を用意していた。 雇ってもらえることになって直ぐに寮に引っ越し、白の調理服に着替えて丁稚奉公をはじめた。
『本当に料理とビジネスの方法を身につけたかったんです。』と、その男/伊東はフランス、マリーブのご自宅からSkypeでのインタビューに応じてくれた。
最初の六ヶ月は只々皿洗いをして野菜を切って過した。ハードな仕事にもめげず、なんでも学ぼうと努力したが、一緒に働いていた人たちからは特に目をかけてはもらえなかった。 『最初、そこの人たちは、あまり親切ではなかったですネ。何も教えてくれなかったし、私が小さな間違いをするのを待っていました。
苛めみたいでした。狭い日本の社会では、よくあることですが・・・・』
ほとんどの若い見習いは料理長のコネで入って来て、調理場で働くようになり、同じ中国系で、広東語を話した。しかし『私の場合はレストランの若社長から直接雇われていた事もあったので、長いこと同僚は私のことを店長のスパイだと思っていたみたいです。』と、彼は面白そうに話をしてくれた
しかし、その頃はそれほど面白いとは思えなかっただろう。
「あいつには気を付けろよ」とか「あいつが社長にどんな告げ口をしているか判らないからな。」などと言われていたのだろうが、何とか彼はその状況を切り抜けた。 『休憩時間にシェフの肩を揉ませてもらったのがキッカケで「シェフの信用を勝ち取った後、皆んなと良い友達になれたので、調理場での仕事を続けることができました』。
その後、彼は異文化の中に飛び込んで新体道を伝えることになったのだが・・・
『知ってるでしょう。何とかなるんですヨ、結局は! 私はその頃から相手に「呼吸を合わせる」のが得意だったんです。六ヶ月ぐらいかかりましたが、キッチンの連中全員とうまくやれるようになりました。』
苛めに遭っているときにも、彼は「自分がどれだけラッキーなのか」と考えていた。「オレはツイている。身体は小柄でぱっとしないけど、今は寮に住んでいるので毎月家賃を払う必要はない。その分お金が節約できる。シェフのアシスタントをしているあいだは、調理服(白の上下)をいつでも(無料で)貸してもらえる」と。
『実際に、永安楼に務めていた二年半の間は、その服しか着ていませんでした。自分の服はほとんど持ってなかったです』と、彼は笑いながら言った。
『週に一回、汚れた服を洗濯屋に出すんですが、週の初めには洗い立ての服を着ていました。』
物事がシンプルな時代だった。『私は元気で、一年中、冬でも料理用の白衣しか着ていませんでした。大卒でサラリーマンになった人たちは普通、会社勤めをするためには、ちゃんとしたスーツやネクタイを自分で揃えなければいけなかった。それに比べればずいぶんお金を節約できました。それに商売が繁盛していたので張サンはずいぶん気前がよくて、給料として手取りで月に5〜6万円を貰っていました。大卒の初任給が2万〜2万5千円という時代です。』
『社長の気前も良かったですが、私も週7日/一日12時間、猛烈に働いていましたがネ!』(因みに、当時の中華街は、日本の労働基準法は適用外だった!)
虐めが止むにつれて、彼はシェフのすぐ側で働くようになり、そこで中華料理の基本中の基本であるチャーハンの作り方を学んだ。
『料理見習いになったら、最初に習うのがそれなんです。上手にできるようになったら、シェフが他の手の込んだ料理を作っているときに、チャーハンとかタンメンその他の簡単な一品料理を作るのが仕事でした。 私はその間、シェフが他の料理を作っている様子を見ることができたので、それは一種の見取り稽古になってゆきました。』
平日のほぼ毎日、12時間の永安楼での仕事を終えたあと、中華街から2km先の野毛山の急坂を登って青木師指導の楽天会の研究会に集まった人と会いに行った。
『先生は真夜中近くに仕事から帰って来られるので、野毛山公園での稽古は、
大抵は午前1時から3時頃まででした。午前4時ごろに中華街の寮に帰って3〜4時間眠り、つぎの日はまた午前10時から仕事を始めました。
昼食時の混雑が終わってから1〜2時間の休憩/昼寝、午後5時から10時ごろまでの夕食時まで、又忙しく働いた。 それから稽古着をつかみ、坂を登って青木師指導の楽天会の研究会に通いました』。
今でも旅行者を惹きつけている横浜の中華街は、その頃の週末は特に混雑していた。彼の記憶では『東京の人がうまい中華料理を食べたければ、いつも横浜の中華街に行く』状態だった。
余談になるが、当時、青木師は東京の西郊にある東急空手道場の師範代として、週五日/夕方午後5時〜10時頃まで指導とマネージメントの一人二役で勤務されていた。 空手ブームで稽古する人が増えるに従い、東急電鉄は田園コロシアムの観客席下の一部に大きな空手道場を造り、 主席師範・江上茂、師範代・青木宏之、という布陣で空手道場を経営していたのである。
その頃には多くの小さな空手の町道場が開かれたが、東急道場は例外的に町道場の3〜4倍の広さで、東急電鉄が運営しているおかげで設備もよく整っていた。『東急空手道場はとてもしっかりした空手スクールでした。』
伊東の場合は、月曜日から木曜日まで、いつものスケジュール、つまり長時間の仕事と稽古、わずかな睡眠、を続けた。 『でも週末には猛烈に忙しくかったので、昼寝の時間はなかったですね。』
つまり、週末では昼寝はもちろん、稽古もできなかった。『その頃、楽天会の合宿やイベントはほとんど週末だったので、参加できませんでした。』
仕事もスケジュールも厳しいものだったが、その頃の彼にとって、一番辛かったのは楽天会の稽古に参加できなかったことだった。
インタビューの時、彼は目をギュッと閉じて顔をしかめ、少年が心配な時にするように拳を胸の前で握った。『そのころは、う〜ん』目を開けて言葉を探した・・・・・『ああ、いつも、不安でした』。 彼は、稽古で楽天会の仲間に遅れをとることをいつも心配して、今その辛い週末をすごしているかのような表情でそう言った。『岡田、帆刈他、みんなはこんな風に稽古をしてるのに・・・』彼は空手の突きの真似をしてみせた。
その状況は逆に彼のやる気をかき立てた。『そういう状態だったから、月〜木の四夜は必ず青木師のところに通い続けました。』
その当時の深夜の稽古では、前もって何が起こるかを知ることはほとんどできなかった。『その頃の青木先生はいつもエネルギーやインスピレーションで溢れておられて、いつでも新しいアイデアを使って実験的な稽古を続けておられたんです』。怒涛のような時代であり、楽天会の創造的な稽古はおそらくピークに達しようとしていた。『モルモットよろしく、青木先生は私たちを相手にして、新しい技を試しておられました。』
永安楼での丁稚奉公(?)がうまくいっていたので、時間がたつにつれて彼(イトー)は若いオーナーとますます親しくなった。そして張サンは彼により多くの責任を与えるようになった。
『ワレワレの関係はうまくいっていました。しかしそれは「私にレストランの仕事を任せて、自分はますますラクをしたい!」ということでもあったんです。』
レストランは成功していたし、張さんは社長としてすぐれた資質をたくさん持っていたが、私生活では根っからの遊び人でギャンブラーだった。
『彼は人に仕事を任せるのが本当に上手でしたが、私から見ると真剣さが足りませんでした。私は彼に人生を委ねることはできないと考えました。
それに、彼からは十二分に教わりました。料理の仕方だけでなく、ビジネスのやり方やたくさんのことを学んだ。台所以外でも彼の為に働いていましたから。』
永安楼で二年半勤めた後、張さんと永安楼の同僚たちに別れを告げて、小さな土建会社に雇われてその会社の社長運転手兼ボデイ・ガードになった。
それからは楽天会の週末合宿に参加できるようになった。しかし、中華料理店での経験は、その後も役立った!
ある時、張さんはこんな話をしてくれました。『いいレストランではみんなが勝者なんだ。シェフは料理を楽しみ、オーナーは客をもてなすのを楽しみ、お客は食べるのを楽しむ。ウィン、ウィン、ウィンなので敗者はいないんだヨ!』と。
張サンは、客が中華レストランに来てどうするか説明してくれた。
つまり、客はいくつか大きな皿を注文する。たくさんでも少しでも好きに食べることができる。みな満腹するし、食べ物も無駄にならない。レストランで働く人も、準備やサービスが楽で、店も儲かる。
『日本食のレストランでは、全部が個別に盛り付けられるので、配膳するのがとてもたいへんだろう? 例えば、天ぷらは一人一人の皿に盛らなければいけない。でも中華料理店では、揚げ物は大皿に一盛りになってる!』お客に配るような手つきをしながら彼は続けた。『ハイ、大皿に一盛り。お客さんが自分でとって、たくさん食べる人もいれば、二切れもあれば十分という人もいる。でも支払いはみんな平等、みんな満足する。』
このアイデアが、その後伊東が新体道の合宿をマネージするときにとっても役に立った!『これは私の基本的な哲学になりました。青木先生を喜ばせ、生徒を喜ばせ、最後に合宿を企画した人も満足できる!』と、こう考えるようになりました」・・・・ 名づけて『三方一両得!』。
彼が新体道を指導する時には、グループのリーダーにはプライベート・レッスンとして「合宿の企画の仕方」も指導して来た。このやり方だと、みんなが満足できるので、それが楽しいやり方だと理解してくれることをいつも望んで来た。
ケベックでの9月の合宿の成功の原因は、合宿の企画した人たちがこの方法、彼が中華街の見習いシェフ時代に学んだ商売のコツで、合宿のマネージメントをしたことであると思う!
『正確に言うと、永安楼で働いた期間はたった二年半だったけれど、そこで学んだことは一生使える知恵だったです!』。