プロローグ
2002年の5月以来、呉式の馬長勲老師に師事して太極拳の修業をしている。既に、北京で3回、東京で2回、老師指導の日本太極拳協会の指導者講習会に出席。 2005年の夏以来、北米、西欧への出張先でも数回ワークショップを開いて来たので、フランス、クゥエベック、カリフォルニア、ワシントンにも同好会が出来た。その太極拳のシンボルになっている陰陽のマークに因んで:
陰陽の陽
一言で言えば、「1975年に渡米以来、北米と西欧での新体道の普及に賭けた32年間の人生は、太平洋戦争の加害者の国の子孫でありながら、その事実に眼を向けず、敗戦後の日本の貧困と悲惨の中、廃墟と化したヒロシマ の生き残りとして逞しく成長してきた自分の生命力をセールスポイントにして北米や西欧の人達に『愛と平和の武道/潜在能力開発法としての新体道』を伝えて来た」ように思う。
陽、極まって陰。
南京へ出発する前の拙稿「大妙考」を参照。
陰陽の陰
今回、南京会議に出席するに当たって、加害者の国の子孫として当時の日本帝国陸海軍の残虐行為と、その犠牲になった中国の人達(生存者とその子孫)のことをしっかりと学習したので、蛮行がどれだけひどかったは充分に理解できていた、と考えていた。それ故に、南京到着の際には、会議場ではたくさんの人達から白い眼で見られるのではないか、と不安に思っていた。
(しかし、実際には、先ず暖かく迎え入れられて当惑したのだが。)
会議では、生存者達の話し、調査をした中国側の学者達の話しを聞いて、自身の理解がどれだけ上辺だけのものだったか、実感した。
投降した中国兵の虐殺、戦闘終了後/占領中の市民への虐待、婦女子への性暴力/陵辱、地元民からの食料、家具、衣類の強奪、等の蛮行は全く筆舌に尽くしがたいことだったことをはっきりと確認し、理解した。
要するに『当時の日本軍はとっても卑怯だった』のだ。
そして、『その事実に眼を向けずに、現在も正式な謝罪を拒否している日本人の事をとっても卑怯な奴らだ!』と多くの中国人は思っていること。 言わば、「恥の上塗り」ならぬ、「卑怯の上塗り」をしているということだろう! 一見親日的な中国人であっても、こころの奥深くではそう思っている、という事にはっきりと気付いた。
会議中、女性シンポジウムのパネルとして出席した日本人の臨床心理学博士・村本邦子女史/立命館大学応用人間科学研究科教授の発表にあった;
1)戦後中国大陸や南方各地から帰って来た日本兵達の多数が自分達が生き延び、自分達の家族の幸せを守るのに精一杯で、自ら犯した罪を反省する余裕等無いまま、戦後の日本再建の原動力になった。
2)太平洋戦争を始めた日本の為政者、軍部、それに協力した企業家達をきっちりと糾弾する事無く、社会の中に復帰させて日本を再建してきた。(例:石井部隊に属していた軍医達を戦後の日本社会の中軸に横滑りで復帰させた無責任。)
等の事実を思うと、『現代日本の社会で発生している、「性道徳の乱れ」「多くの男子達の引きこもり」「多くの女子達の拒食症」「異常な少年犯罪」「家庭内暴力」等は、加害国としての日本が戦争責任を曖昧にしてきた反動として社会に現れて来ているのではないか!?!?!?』と言う推論も、素直に同意できた。
ワタシの母は2回離婚している。幼児の頃、母から「ワタシの実の父は職業軍人で、海軍の陸戦隊に所属していた」と聞かされたこと、を会議中にふっと思い出す。大正年間の終わりに広島の田舎の農家の次男坊として生まれ育った当時の父には自然な選択だった、と受け入れる。しかし、養子だった父は戦地から引き上げて来て直ぐに、母、3歳のワタシ、と生後1年に満たない弟を置いてウチを出て行ってしまった。母からは、「アンタ等をそだてるためには何でもやったヨ。ならんかったのはパンパンだけじゃった!」とよくきかされた。(『ワタシは罪の中でアナタを身ごもった』という旧約聖書の中の言葉が頭の中をよぎる。)
二人目のオヤジは9歳ちがいの妹の父親だったが、アル中で博打が好きだったのを憶えている。酔うとよく「陸軍の二等兵」として中国大陸を転戦させられた歪んだ青春時代の思い出話しをしていた。楽天会でキリストの教えに目覚めたワタシが薦めた聖書を熱心に読んだのがキッカケでキリスト教の信仰に目覚めた母は、その事に不満だった義父との間がうまくゆかなくなって、義妹が20歳を過ぎたころ離婚した。後で聞いた話しでは、家庭内暴力が激しかったと言う。その義父も、母と離婚した後は軍人恩給をもらっての一人暮らしで、広島県呉市内で十数年前に一人寂しく死んで行った。その人の妹と言う人から、「貴女のお父さんが貴女に遺していったオカネ、といって数十万円送られて来たときには、とってもつらかった」と数年前に義妹から聞いた事がある。
2007年11月23日午後、会議に参加した日本人一同で南京大虐殺の殺戮現場の一つ/燕子磯の犠牲者の記念碑にお参りして献花する。記念碑が立っている丘の上から揚子江を見ると河岸に錆びれた桟橋があった。その桟橋に向かって丘を下っていったところに位置する陽当たりの悪い平地。その平地の先にあった小さな砂浜。記念碑は丘の上に立てられているが、実際に日本兵が日本刀を振り、機銃掃射をしたのは、その小さな平地と浜辺が続いていた辺りだったのではないか、と察する。そう思いつつ、その場所に歩いて行った途端、五体の中に戦慄が走った! 聞こえる! 感ずる! アビキュウカンが! 靴と上着を脱いで、その場で正座。そして、天真五相を一回やった後でキチッとした礼をしようとして両手を地面に着いた瞬間、再び全身に戦慄。懺悔のポーズと斬首される側のポーズが重なって、そのまま土下座。日本人としての原罪をはっきりと認識した瞬間だった。
陰、極まって陽。
燕子磯にお参りした後、気持ちが楽になった。内観をして悔い改めた感じとソックリ。そして、とっても元気になった。下世話な話しだが、次の日の朝には激しい「朝起ち」があったのでビックリ! 振り返ってみると、これ迄の人生は「積んでも積んでも崩されてしまう賽の河原の石の山」の様な人生だったような気がするのだが、もしかして、これから人生で積む善行はどんどん評価されて行くのではないか、と期待する。
エピローグ
イヴェントの最終日の朝、会議に出席せず、小田まゆみさん(ハワイ在住の画家)、道友の皆川正、と3人でもう一度、「燕子磯」へ向かう。今回は公園の中に入らず、公園に向かって右側の路地を通って直接揚子江脇の小さな砂浜に出る。
3人で浜辺に正座。瞑想、懺悔、お詫び、祈祷。
途中、一人で立ち上がって「ガテイ。ガテイ。パラ、ガテイ。パラサム、ガテイ、ボデイ、スバハ。」と唱えつつ、大妙を演舞。虐殺にあった犠牲者達が渡って往きたかったであろう揚子江の『彼岸』にむかって唱える般若心経は象徴的だった。「砕山」から「養神」に入ったところで、『わたしは世の終わり迄あなた方と共に居る』というキリストの言葉が自然と口をついて出た。「照世位」はキリストのトレードマークとも言えるポーズだが、そのときのワタシのこころは「観音菩薩」だった。「あなた方の一人でも成仏できないでいるなら、ワタシもここに留まる!」という決意。最後に、イメージで「栄光大」をやり、対岸/彼岸にむかってたくさんの虹の橋を架けた。