南京記憶国際学術会議南京大屠殺70周年記念ノート part 1
南京記憶国際学術会議南京大屠殺70周年記念
主催 南京友好基金南京本部
国際会議『南京を想起する』日本実行委員会
東京師範大学南京大虐殺研究所
共催 南京友好基金日本支部
南京友好支部アメリカ支部
A World Without Armies Project
開会式 2007年11月22日
村川治彦 (主催者、立命館大学教授)
張 連紅 (主催者、南京大学教授)
張 連紅氏挨拶
私達は、未だに戦争の過去の悲劇の教訓を活かしていません。7年前、棚橋先生が来られたのをきっかけに友好基金会を設立しました。いろんな問題があり、まだ現在に至っても十分に設立されていません。
今日、日・米・独から友好の友人が集まってこの大会が開かれました。私達は、歴史を顧み、悲劇の地を訪れます。また、棚橋先生を中心とした芸術展示会を通して、戦争について考える機会としたいと思います。過去に起きた南京虐殺に私達が如何に立ち向かうか、未来に向けてどのようにするのか考えたい。人類として和解しあい、平和の願いに貢献するものとしたいと思います。
村川晴彦氏挨拶
張先生と棚橋先生に感謝の意を表します。
70年前日本軍が侵略した南京大虐殺に深く陳謝します。また、今回来て頂いた証人の方々に私達日本人が行った過去について心よりお詫び申し上げます。
私達は、今回二つの目的を持って、日本から来ました。一つは中国の方々が感じておられる深い悲しみに私達が耳を傾ける事。もう一つは、同時に私達日本人がこの事件に様々な想いを抱いているということを知らせにやって来ました。日本には、様々な意見や気持を抱いている人達がいます。私は、日本人であると同時に村川晴彦という一人の人間であります。日本人であるという事に関して、まだ私はこの事件に責任が持てないです。でも一人の人間として感じていることは伝えられると思います。
張先生の世界平和の道は、私達が正直な想いを分かち合い、一人一人の信頼関係を築いて友人になっていくこと、それ以外にないと思っています。
私達のこの動きが新しい世界を築いてゆく一つの出発点となる事を切に願います。唯想いを分ち合うばかりでなく、私達がそこにいるということが大事だと考えます。
生存者の証言 1
証言者:常 志強 先生(80歳 男性)
今年、年末に80歳になります。南京事件は、70年経ってもまるできのう起こったように感じています。
70年前の起こった戦争は、特に私の家族に多くの被害をもたらせました。当時、私達家族は中華門の近くに住んでいました。そこはとてもにぎやかな場所でした。私達は10人家族でした。家族の生計は父に頼っていました。父は雑貨商だった。その時私は10歳、小学生でした。二つ上の姉と弟達は店が小さいので祖母の所で暮らしていました。1937年のその時、日本軍が初めて南京を空爆しました。○○塔を爆撃しました。沢山の人がそれを観に行き、私達も観に行きました。その時観た光景は、悲惨なものでした。沢山の人が死んだ。その中には子供を抱いている女性が死んでいました。母親は亡くなったが、その子供は多分今でも生きているのではないかと思います。
その時、国民党は撤退し、皆も逃げました。事前に私達は政府の勧めで沢山の防空壕を掘ってありました。はじめ父は祖母にどうして逃げないのか聞いた、祖母は、老人達は逃げ切れないので、ここに居ると言いました。私は、祖母を置いて逃げると親不孝になるからと思い、祖母と一緒に逃げなかった。
でも、段々戦いが激しくなり、結局祖母も一緒に逃げましょうと、父と一緒に家族と逃げました。でも私達は家族が多いので遠くに逃げ切れないと、米英の人達が創った国際慈善会の安全避難所に行こうと思った。その難民区に行くには、一つの橋(内橋)を渡らないと難民区へ入れません。その北側には大学と政府の建物があったので、そこは内橋を守る国民党の兵士がいて、橋は封鎖されていました。日本軍は城門のすぐ近く迄迫って来ましたが、兵士達は銃を出して脅して、私達皆に橋を通してくれなかった。外は12月の一番寒い時期でした。私達はしかたなく内橋の隣にある王府園(?)という横丁に逃げた。そこに一つの大きな家があり、そこの人達はやさしく私達を受け入れてくれ、泊めてくれた。三つの大きな部屋があり、私達はふとんも持って来れなかったので、体を寄せ合って一晩過ごしました。食べ物も無くとても寒かったので、私は一晩で病気になってしまいました。翌朝、私達が難民区に行こうと思った時、北、東、東南の方向で日本軍の爆撃が始まった。激しい爆撃が始まったので、私達は仕方なく防空壕に入ろうとしたが、私は病気のため入ることが出来なかった。父が私を探しに来た時、一瞬爆撃が止んだ。その時『人殺し』と助けを求める声があちこちから聞こえて来て、皆パニックに陥りました。私達の中に、逃げようという意見と、私達は一般市民だから大丈夫だという意見がありました。でも、日本兵は暴力的だからやっぱり逃げようという事になりました。逃げようとした時に、日本軍が侵入してきた。横丁に逃げ場がなくなって、突き当たりの所に人々が追い込まれてしまいました。日本軍は私達に向かって発砲した。前の人達の死んだ姿を見て、私達は、悲鳴をあげた。一瞬パニックになりましたが、死んでない若者の男の人達が前に立って、私達を逃がそうとしました。女、子供を守ろうとしました。日本兵はその時銃剣でその人達や大勢の人達を刺し殺した。
私の見た光景、群衆は倒れても立ち上がり、立ったらまた刺されました。皆最初の内は反抗しなかったけど、日本兵の銃剣をつかんで離さなかったりしましたが、皆銃剣で刺されたり、日本刀で斬り殺されました。おびただしい血があちこちで流されて悲惨でした。虐殺があちこちで始まりました。前の人達が銃剣で刺され、後ろの人達が前に立つ。そしてそれを日本兵がまた殺し、殺戮が繰り広げられました。私達は庭に逃げ込んだ。その時は母は一人で、小さい弟を守る事が出来なくなってオロオロした。私と弟達は母から離れない様に走り回って逃げ回っていた。あちこちで日本兵が人を殺して、悲鳴が起こりとても悲惨な状況でした。その時、一人の日本兵が母と顔を見合わせた。そして銃剣で母を刺した。幼い弟を抱きながら母は倒れた。母は倒れても弟を助けようと立ち上がろうとした。その母をまた日本兵は刺そうとした。母がその日本兵の銃剣を握りました。片手に銃剣を握り、片手に弟を抱いていました。日本兵が思い切りその銃剣を引いたので、母の指は切断されました。その時、弟も地面に落ちた。日本兵は母を殺そうとしたので、私と姉は『殺さないで』と叫びましたが、聞いてもらえず、日本兵はまた母を刺した。私達は『殺さないで』と必死に叫びました。本当に残酷な光景でした。弟は泣きながらも、母を助けようと、その兵士の足にしがみつきました。その2歳の弟に対し、中国では子供はお尻がはだけているズボンをはいています、そのはだけたお尻を刺したので銃剣が弟の体をクシだしにしました。日本兵はそのまま弟を大きく遠くに放り投げた。弟は声も出せずに死んでいったと思ったが、しばらくすると、声を出して泣き出した。泣くなと弟をかばっている時、見たら日本兵がまた母を刺していた。4歳の上の弟と姉は、その兵士のベルトを引っ張って、服をかんで『母を殺さないで』と抵抗した。
姉も刺されて殺された。私は二人に『逃げて』と叫んだが、声が届かなかった。姉は刺されて、動かなかったので、日本兵は髪をつかんで姉の死体を放り投げました、弟を刺しながら。私は『お父さん、助けて』と叫んだ。そして叫んでいるうちに意識を失った。しばらくして目が覚めたら、私の下に居たはずの弟の姿が見えなくなっているのに気付いた。周りには沢山の死体が転がっていた。血の海であった。私は姉を発見した。姉は綿入れを着ていた。綿入れは血にまぎれていた。近づくと姉は泣くばかりで何も答えてくれなかった。姉が泣いているのを見て、私は刺された傷が痛いのかと聞いているうちに、姉が母を探してと言っているのが判ったので、私は母を探しに行った。周りをみたら、母が壁にもたれていた。口はかすかに動いていたが、体中に刺された傷があり、そこから血が噴き出して流れていたので、私は泣きながらその傷口を押さえてあげた。母は私の涙を拭おうとしたが、手が力なく下に落ちた。私は母の目が他を見ているのに気付いた。母は小さな弟を探してという事だと思い、弟を探し始めた。私が母の見つめるその方向に行くと、弟が死体の中からはい出し、『来ちゃん』と呼んだら、弟は裸足で手も血だらけで、お尻から血が流れた悲惨な姿で私の方に走って来た。母は弟を抱き上げて血を拭こうとした。寒かったので血は氷となっていたのでパラパラと地面に落ちた。母は幼い弟に乳をあげようとして弟を抱いた。弟は母の乳を飲んだ。弟が乳を飲むたびに母の体中の刺された傷口から血が泡みたいに噴き出した。私は母が死んでしまうので弟に乳を飲むなと叫んだ。そのうち母は頭を垂れて意識を失った。母の頭が横に垂れてしまっても弟は乳を飲んでいた。しばらくすると乳が出なくなったと思う。私は母の体を揺すって、母の目を覚まそうとした。揺すっても揺すっても母は目を覚まさなかった。私は死んでしまった母をその場に残し、泣きながら父を捜しに行った。しばらく行くと、死体がいっぱいの所に父が一番前で坐っている姿が見えた。父は眠っていると思った。私は必死に父の体を触り傷をさがした。背中に銃痕があった、その傷穴の中に手を入れると肉があったが血がなかったので、まだ大丈夫と思って私は力を入れて父を起こそうと押したら、父の体はどっと倒れた。そのことで父が死んだという事が判った。私は姉の所に行って母も父も死んだ事を報告した。二人は一緒に泣いた。その時、また近くで叫び声が聞こえて来た。姉は私を逃がそうとした。姉は血がいっぱい付いた服を脱がせてと私に頼んだ。脱がせた時に凍った血の固まりがパラパラと地に落ちた。私達は綿入れだけで誰かの家の中に隠れた。その家はとても汚かった。ベッドの下に隠れるとそこにはオマル(便器)があって、とても臭かった。その臭いにがまんしながら、息をひそめて、ドアの外を見ると2・3人の日本兵が死体の中から金目の物をさがしていた。日本兵は私達の隠れているこの家の中まで入って来たが、この家があまりにも汚いのですぐ出て行った。
外は真っ暗になっていた。二人泣きながらそのうち寝入ってしまった。私達は一晩そこで過ごした。早朝、外に出ると一人の女の人が夫の死体の横で泣いていた。私はその人をお母さんと呼んだ。事情を説明して、その人に私達を連れて行ってと助けを求めた。姉が家の中にいるからと、私は姉の体を支えながらその家を出て、その女の人について行った。JUおばさんについて行った。私達は丸二日間何も食べてなかったので、とてもおなかがすいていた。」おばさんはすぐご飯を炊きましょうと準備を始めました。そこに二人の日本兵が入って来ました。そのご飯を見つけました。日本兵は30歳のおばさんを見て、彼女の髪の毛を引っ張って連れ出して強姦しようとした。おばさんの子供は兵士の足にしがみついて、お母さんを連れ出されない様抵抗しましたが、兵士に蹴飛ばされてしまった。私の姉は体の五カ所を刺されていて動けませんでした。その姉を見て、日本兵は姉を連れ出そうとした。私の姉はその時12歳でした。私はかわいそうな姉を見て、この日本兵を本当に殺したいと思った。30分位経って姉とおばさんが帰って来ました。おばさんはご飯を食べないで、この家を離れた方が良いと言った。おばさんは自分の子供を連れて難民区へ行こうとした。
私達はその難民区でとてもいい人に出会った。その人に面倒みてもらった。両親と4人の弟が亡くなった、姉は体が弱くその時はやった疫病にかかって死んでしまった。後で日本軍が細菌を投下した事を知った。ひいおばあさんはその時まだ生きていたが、すぐ死んでしまった。私は孤児となってしまった。一人になって生きる為に働いた。
戦争は私の家族全てを奪った。この体験を話すことは苦痛であるが、戦争がないことを願って話した。南京虐殺は、軍国主義がおこしたもので、私は今の日本人を恨んではいません。私には日本人の友人もいます。
戦争がない様にこれからも頑張ってゆきたい。平和が尊いことを訴えてゆきたいと思います。
生存者の証言2
証言者 張 秀江女史(81歳女性)
その時、私達は南京の郊外に住んでいました。日本軍が入って来た時、私達は家に居ました。日本兵は父に『あなたは国民兵だろう』と言いました。父は農民でした。日本兵は父を見回しながら、父の頭のあとを指差し、ヘルメットのあとだと、そして指のタコは銃のあとだと言って、父に迫りました。私達は、日本兵に野良仕事の道具を見せながら農民だと言いました。日本兵は納得した様で出て行ったが、その後家に火を放って、私達の家を焼いてしまった。私達は焼き出され、家を無くして行く場も無く畑に逃げた。その時着の身着のままで布団もなかったので、私達はワラの中にもぐって寒さをしのいだ。夜は畑で寝た。米を少し持ち出していたので、夜、地面を掘ってかまどを造り米を炊いて食べた。その時、日本兵が一人見つからないので、日本兵が私達を殺しに来ると言う噂を聞いた。私達は逃げた。昼は隠れ、夜逃げた。17日間過ごし、米が無くなったので村に帰ったら、村は血の海で村も人達は全員殺されていた。
私達は稲の積んであるワラの中に隠れていた。日本兵は女の人を探すため、積んであるワラの固まりに向かって銃剣で刺し始めた。ワラの中から女の子が逃げ出したら、そのワラに火を放った。逃げ出そうとすると燃えている火の中に女の子を放り込んだ。私もワラに隠れていた。その時指の先にワラが刺さって痛かったが、見つけられるのが怖かったので泣き声をあげなかった。とても痛かったが我慢した。その痕は今でもこうして残っている。(指を会場の人達に見せた)
その時、女の子達は、日本兵に見つかると強姦されるので、釜のススでみんな顔を真っ黒に塗り、汚い服を着ていました。女の子達は逃げ場をアチコチ探しました。川の近くの薮の中に沢山の女の子が隠れた。ある日、それを日本兵に見つけられ、日本兵はその林に向かって機関銃で発砲しました。ほとんどの人が死んだ。私は川の中に飛び込んで隠れた。しばらくして、村に帰った。日本兵から逃げ、おじいさんが私を抱いて守ってくれた。家に行くと両親は避難していた。日本兵が私達のいる家の近くまで来て、私を連れ出そうとした。おじいさんは抵抗して私を守ろうとした。日本兵はおじいさんの胸の前に銃を突きつけた。私はおじいさんが殺されてしまうので、行かせてとおじいさんに頼んだ。おじいさんは泣きながら私を守ろうとしたが銃で威嚇された。
私は、二人の日本兵に連れて行かれ、家の中で服を脱がされた。日本兵が銃剣で私のパンツを切り裂いた。私は足を開かれ強姦された。とても痛かった。怖かったのでじっとベッドでされるままになっていた。ベッドは血だらけで、私は放心して動けなかった。日本兵達が離れて行くと、おじいさんが家の中に入って来た。私が裸で足を広げたまま全く動かなかったので、私は生きているのに、おじいさんは死んだと思った。私の両足は開いて、股間が血だらけだったので、わたしの開いた両足をおじいさんは縄で縛った。あなたは、私を助ける為にこんなひどい目に会ったとおじいさんは泣きじゃくって、私に謝りました。おじいさんは私が歩けないので、私の両足を縄で縛って、私を連れ出しました。治ったらまたやられると、男の子の姿だったらやられないと私の髪の毛を短く切って、もし日本兵にあっても怖がらないでといわれた。その後、日本兵にあっても、女の子だろうと聞かれたが私は男の子だと言った。男の子だと言って逃げ出さなかった。
沢山の女の子がレイプされた。日本兵に従う人は、レイプされた。従わなかった人達は刺し殺した。下半身から銃剣で突き刺して放り投げた。女の子としては戦々恐々となった。
沢山の女の子達が日本兵に一列に並ばされ、選ばれた女の子は、全員顔に墨を塗って、汚い格好をしていた、体を洗わせた。かわいい女の子は連れ出されレイプされた。かわいくない女の子は銃で撃ち殺された。反抗した女の子達は日本兵に銃剣で刺されて殺された。私は、男の格好をしてそれを見ていた。
日本軍は中国に8年いた。もっといたらもっと沢山の人達が殺されたでしょう。後で30万人殺されたと聞いたが、私はそれ以上だと思う。私は、何万人の人達が殺されるのをこの目で見た。男の人達は縄で縛られ連れて行かれた。ちょっとでも列から遅れると銃剣で殺され、年寄りで歩けなくなると殺された。私は男の子の格好をしながら、そういう光景を毎日毎日見ていた。
沢山の赤ちゃんも殺された。日本兵はお尻から銃剣を刺して、串刺しにして、それを高くあげる、それを他の日本兵の人達がみて、笑っていた。そしてその子を遠くに放り投げた。お母さんから子供を奪って、ゲームみたいに殺した。
洞穴に隠れていた人達に、日本兵は洞穴めざして機銃放射した。
村で飼っている豚とか鶏とかアヒル等奪った。私にそれらを担がせた。私は10歳の子供だったので重くて担げないと、日本兵は銃剣で背中を刺した。刺すと痛いので担げないと文句をいうと、日本兵は銃底で背中を叩いた。今でも寒くなるとその時の背中の傷が痛む。強姦された足の傷も痛む。
今、私は仏教を信じている。毎朝祈っています。毎朝体を鍛えています。
子供の時レイプされ、その時は判らなかったが、後で子供を順調に生むことが出来ない体になっていたと知った。ある時、北京の人がインタビューした。私に聞くのではなく、私の夫に聞いた。夫は私の過去について尊重し、私の過去の傷を思いやってくれた。昔沢山会った嫌な事を話してくれと頼まれた。張 光夫(夫)は私を支援してくれた。学校で若い世代に話してくれと頼まれた。
主人も彼の家族も殺されたと15年前に話しました。
南京城に川がある。上流部に橋があり、爆破されたので、日本兵がその川に沢山の死体を埋め、川の前に沢山の中国人を立たせて殺して、その死体の上に板を敷いて橋を造って渡った。2~3ヶ月経つと死体が腐って橋が崩れてしまった。そのすさまじい臭いは今でも記憶に残っている。
生きるため、畑の仕事をした。畑一面死体が転がっていた。農民もいれば国民兵もいた。畑を耕すため、まずその死体を片付けなければならなかった。私達は、3つの大きな穴を掘ってその死体を埋葬した。
沢山の中国人が殺された。昔の話しをすると沢山の人達が殺されるのを見て、その時の日本軍は本当に悪く、怖かった。男の子の格好をしながら沢山の事を見て来た。もっと悲惨なことあったが、あまり時間がないので、」主な記憶にあることだけ話しました。今、記憶力も耳も悪くなった。私文字が読めないのと沢山の事忘れてしまった。
日本人としての感想
津村 喬先生
略歴
1948年生まれ。父親は日本共産党の設立に参加し、1950年代の総評の事務局長高野実。
1964年10歳の時、初めて父と一緒に中国を訪れた。初めて南京虐殺記念館を訪れ、衝撃を受けライフテーマとした。社会評論家、気功の指導者として以後150回中国を訪れている。
40分の予定で原稿を用意しましたが、時間がありませんので、今話しません。
70年経っていながら、昨日の様に話しをして頂いた二人の生存者の証言に心が揺さぶれています。私達の為に言いにくいことを話してくれた事感謝します。
私は40年前、虐殺記念館を訪問し。初めてその事件の話しを聞きました。その話しをしてくれた友人の通訳の人も父を殺されたと聞いてショックを受けました。
日本と中国の人達が新しい時代に向かって、この問題を隠して仲良くする方法もあれば、この問題をはっきり出して友好関係を築いていくという方法もあります。私の父は社会労働運動の指導者でした。盧溝橋事件の時、日本軍部に呼ばれ、戦争協力を頼まれたそうです。
1967年、私達は親子で北京に行きました。その時はあまり日本人はいませんでした。父親は盧溝橋事件の30周年の会を関して、北京郊外のこの事件が戦争のきっかけとなり、軍部が戦争が拡大していった。父親は協力すると言わなかったけど、銃を突きつけられたので、戦争の反対するとあの時言えなかった事をとても残念に思ったと帰って来た。
その時に北京の集まりで自分が抵抗して、殺されても戦争に反対したら、何人かの中国人が殺されなかっただろうと話していた。もし、その時父親が殺されたら私はいないわけですが。
そうした想いをつなぎながら、父親は戦後、労働運動を続けた。
南京事件の時、父親はその兵隊の中にいなかったけど、私もまたこういう状況に立たされた時、私もまたこういう事をしないという保証はない。そこに展示された日本人は鬼のようなそれではなく、ごく普通の農民だった。
それ以降、同じ状況に立たされた時に、虐殺や強姦等をしない、そういう思想をどういう風に育てられるかが、私の今後の課題となった。
代々受け継げられた男から男への暴力の根源のようなものがあります。全くこの事が必然と論議されて、反省された事が無いため、この隠された暴力というものが形を変え、現在も繰り返されていると思う。
戦後の日本の経済成長も朝鮮動乱や様々な戦争の代償を受けて発展してきた。
日本人はもう一度南京のことを振り返らなければならない。私達が、僕らの中にある自分が気付いていない暴力の根っこというものを断たなければ、本当の意味の平和というものはない。その為の場を用意して頂いたこと感謝します。